面白い発想があるだけでは、面白い文章が完成するとは限らない。
私は、文章の面白さというものは、書き手の頭の中にあるだけでは成立しないと思っています。どれほど面白い発想を思いついても、それが読者に伝わらなければ、作品としての面白さは十分には発揮されません。
書き手には結末まで見えている。
しかし、読者には見えていない。
この差を意識しないまま文章を書くと、書き手には分かっていることが読者には分からない、という状態が生まれます。
先日、私は熱中症を題材にした短いネットの投稿を読みました。
男性が公園で恋人とデートをしている。ところが恋人の体調が悪くなる。頭がぼんやりして、呼吸も荒くなっていく。男性は心配して、彼女を自宅へ連れて帰り、冷房の効いた部屋で休ませようとする。
ところが最後になって、男性は気づきます。
そもそも自分には恋人などいなかった。
そういうオチでした。
発想そのものは面白い。
熱中症によって認識が混乱し、存在しない恋人と一緒にいたと思い込んでいた、という意外な結末を狙ったのでしょう。
しかし私は、最後の一文よりも、その途中の文章の方が気になりました。
なぜなら、オチへ到達する前から、物語がどこか不安定だったからです。
目次
オチだけを意外にしても、物語は成立しない
この投稿では、体調を崩しているのは恋人として描かれています。
恋人の頭がぼんやりしている。
恋人の呼吸が荒くなる。
男性は彼女を心配している。
ところが最後には、その恋人そのものが存在していなかったことが分かる。
そうなると、本当に熱中症で認識が混乱していたのは男性自身だったと考えるのが自然です。
しかし、男性自身がおかしくなっていることを示す描写が、ほとんどありません。
男性がふらついているわけでもない。
判断がおかしくなっている様子もない。
本人の認識に異常があることを示す伏線も十分ではない。
そのため、最後の結末を読んでも、
「あの場面はそういう意味だったのか」
とはなりにくい。
むしろ、
「どうして突然そうなるのだろう」
という疑問が先に出てきます。
ここが、私は重要だと思います。
優れたオチとは、最後に意外な情報を追加することではありません。
最後の情報によって、それまで読んできた文章の意味が変わることです。
結末を知った後で前の文章を思い返したとき、
「あれは伏線だったのか」
「だから、あの行動がおかしかったのか」
と理解できる。
そこまでつながったとき、意外性が作品として成立します。
不合理な物語ほど、合理的な構成が必要になる
私は、この投稿を読んで、ピカソなどの絵画を少し連想しました。
普通の遠近法や、一つの視点だけでは捉えられないものを、複数の視点から組み立てる。
完成した絵だけを見れば、現実とは違っている。
しかし、その違いは作者が意図して作っています。
ここには、大きな違いがあります。
意図的に不合理を作ることと、構成力が足りないために不合理になってしまうことは同じではありません。
不条理な作品だから、理由がなくてよいわけではない。
むしろ、読者に不合理を受け入れてもらうためには、その不合理を作者自身がかなり制御している必要があります。
どこを崩すのか。
どこは普通の論理として残すのか。
どこまで説明するのか。
どこから先を読者に想像させるのか。
そうしたことが考えられていれば、奇妙な物語であっても作品として成立します。
反対に、必要な情報が欠け、原因と結果がつながらず、最後にだけ奇抜な情報が置かれている場合、それは不条理というより、単純に構成が不足している可能性があります。
不合理な結末を成立させるには、むしろ合理的で緻密な文章構成が必要なのだと思います。
失敗した文章が面白くなることもある
ただ、面白いことに、構成が崩れている文章が必ずしもつまらないわけではありません。
今回の投稿も、私はどこか面白いと感じました。
しかし、その面白さは、おそらく作者が最初に狙っていた面白さとは少し違います。
私はこれを、お笑いの「滑り芸」に少し似ていると思いました。
芸人が狙ったところできれいに笑いを取る。
これは一つの成功です。
しかし、狙った笑いが外れ、その外れ方そのものが面白くなることもあります。
観客が、
「たぶんこの人は、こういうオチに持っていきたいのだろうな」
と先に分かってしまう。
それでも見守る。
そして予想どおりうまくいかなかったときに、別の笑いが生まれる。
このとき、笑いの対象は、演じられている内容だけではありません。
演者の不器用さや、何とかそこへ持っていこうとする姿そのものが面白くなっています。
文章でも同じことが起こるのではないでしょうか。
書き手が意図したオチよりも、そのオチを成立させようとして文章が無理をしていることの方が面白くなる。
ただし、ここには注意が必要です。
偶然滑って面白くなったことと、滑ることまで含めて芸として成立させたことは違います。
「結果として笑えた」という理由だけで、その文章構成が成功していたとは言えません。
読者を驚かせることと、混乱させることは違う
意外な結末を書くとき、読者の予想を裏切ることは重要です。
しかし、「予想を裏切る」ことと、「何が起こったのか分からなくする」ことは違います。
優れた驚きでは、読者の理解が最後に深まります。
それまで普通に読んでいた文章が、最後の一文によって別の意味を持つ。
読者は、
「そういうことだったのか」
と思う。
一方、情報が不足している場合は、
「なぜそうなるのか」
と考えなければならない。
これは驚きではなく、説明不足を読者自身が補っている状態です。
伏線は露骨すぎてもいけません。
露骨なら、結末を予想されます。
しかし、伏線がなければ、オチは唐突になります。
この間の微妙な場所に、文章技術があります。
挑戦することと、作品として成功することは別である
だからといって、難しい構成に挑戦してはいけないとは思いません。
むしろ、失敗を恐れず書いた方がよい。
文章は、失敗したから命を失うようなものではありません。
難しいオチを書いてみる。
伏線を仕込んでみる。
いつもと違う構成を試してみる。
失敗したら、なぜ伝わらなかったのかを考える。
それでよいと思います。
ただし、「挑戦したこと」と「作品として成功したこと」は分けて考えなければなりません。
書き手が一生懸命書いたからといって、読者に意味が伝わるとは限らない。
だから、構成、文法、伏線、因果関係といった基本が重要になります。
私は、文章を書く以上、最終的には書き手の頭の中にあるものが、ある程度読者の頭の中でも再現されなければならないと思っています。
面白い発想がある。
それは大切です。
しかし、その発想を読者へ運ぶ橋が必要です。
その橋が文章構成です。
偶然面白くなる文章もあるでしょう。
しかし、狙った面白さを成立させるには、読者がそこまで歩いてこられる道を作らなければならない。
まとめ|面白さは伝わって初めて作品になる
面白い発想を持つことは、文章を書くうえで大切です。
しかし、その発想だけで作品が完成するわけではありません。
読者が途中の出来事を理解し、最後の結末にたどり着き、その瞬間にそれまでの文章を別の意味で理解できる。
そこまで設計されて初めて、意外な結末は本来の力を持つのだと思います。
面白さは、書き手が思いついただけでは完成しません。
読者に伝わって初めて、作品になるのだと思います。
