こんにちは。高垣です。
便利なものが毎日きちんと動いている時、その便利さを「依存」として意識することはあまりありません。
スマホで支払える。必要なデータはクラウドにある。仕事は詳しい人に任せておけば回る。
何も問題が起きなければ、それは合理的で快適な仕組みに見えます。
ところが、一つ止まっただけで生活や仕事全体が動かなくなると、見え方が変わります。
「自分は、これ一つにここまで預けていたのか」と初めて気づく。
私は、山地剥の「剥がれる」という動きを、単に失うこととしてだけではなく、隠れていた依存や弱点が表に出ることとして考えたいと思います。
何かが失われた時、本当に見るべきなのは失ったものだけなのでしょうか。
それとも、その下から現れたものなのでしょうか。
便利で当たり前になったものには、ついつい気付かぬうちに依存が起こります。
気づかない所が要点です。
[広告・上]目次
山地剥とは|便利なものほど、止まるまで依存に気づかない
便利なものは、使えている間は問題になりません。
スマホで支払える。
データはクラウドにある。
連絡も予約も地図も、一台あれば全部できる。
便利です。
だからこそ、その便利さを「依存」だとは感じにくい。
全部をあずけてしまいがちになります。
普通に使えている時には、「これは危うい仕組みかもしれない」とは考えません。
むしろ、余計な手間を減らし、一つにまとめることは合理的に見えます。
ところが、ひとたび止まると話が変わります。
決済ができない。
データが開けない。
担当者が休んだだけで仕事が動かない。
その瞬間、
「自分はこんなに一つのものに頼っていたのか」
と気づきます。
山地剥という卦には、「剥がれる」「削られる」「失われていく」という意味があります。
もちろん、剥がれることそのものには痛みがあります。
しかし、私は剥で見るべきなのは、失ったものだけではないと思っています。
剥がれた後に、何が見えたのか。
そこに、この卦を現実へ使う時の重要な視点があります。
それは、いつの間にか預けてしまった、依存してしまったという事実です。
便利になるほど、弱点は見えにくくなる
暮らしの中の便利さには、一つ不思議なところがあります。
うまく動いている間は、その仕組みを意識しなくなることです。
毎日使えているものは、「使えるのが当たり前」になります。
すると、代わりの方法を考えなくなる。
現金を持たなくなる。
紙に控えなくなる。
一人の詳しい人に任せきりになる。
一社からの売上だけで安心する。
それでも何も起きなければ、問題は見えません。
むしろ効率的です。
考えなくなると言うのはひどく重大なことです。
一つに集約することで、管理も楽になります。
ところが、一つ止まる。
そこで初めて、自分に逃げ道がなかったことが見えてきます。
問題は、便利だったことではありません。
止まるまで、自分がどれだけ一つに依存しているのか見えていなかったことです。
山地剥は、何かが減っていく卦として語られます。
しかし、剥がれることには別の面があります。
表面に覆われていたものが取れることで、今まで隠れていた構造が見える。
便利さが消えた時、そこに支えられていた自分の弱点が現れることがあります。
全て、知らない間に力を削ぎ取られて、依存させられていた。これは衝撃的なことです。
「失ったこと」より、「何が見えたか」を見る
何かが使えなくなった時、人はまず困ります。
それは当然です。
元に戻したい。
早く直したい。
別のものを用意したい。
その対応自体は必要です。
ただ、その困りごとの中には情報があります。
たとえば、
スマホが壊れただけで、支払いも連絡もできない。
一人の社員が休んだだけで、誰も仕事を続けられない。
一社との取引がなくなっただけで、売上の大半が消える。
すべてのことがほとんどできなくなる。
手も足も出ない。
これらは、止まった瞬間に突然生まれた弱点ではありません。
弱点は、止まる前から存在していました。
ただ、正常に動いていたために見えていなかっただけです。
剥がれたことで、初めて見える。
ここが山地剥の面白いところだと思います。
失ったことそのものだけに目を奪われれば、
「不運だった」
「元に戻せばいい」
で終わります。
しかし、
なぜ、これ一つがなくなっただけで、ここまで困ったのか。
そこまで考えると、次に直すべき場所が見えてきます。
自分の力は決して、他人に明け渡してはいけない。
[広告・中]便利なものを使うことが悪いわけではない
ここで誤解してはいけないのは、
「便利なものは危険だから使うな」
という話ではないことです。
キャッシュレスは便利です。
クラウドも便利です。
仕事を得意な人に任せることにも意味があります。
一つの道具や仕組みに集約するからこそ、生活や仕事は軽くなります。
すべてを自分で管理し、すべてに予備を用意すれば、安全性は上がるかもしれません。
しかし、その分だけ手間も増えます。
問題は、便利さそのものではありません。
それしかない状態になっていることです。
バランスを取ることです。
便利さとリスクのバランスを取って、リスクを取ることをある程度絞る必要性があると言うことです。
便利な仕組みが止まった時、少し面倒になる程度なのか。
それとも、何もできなくなるのか。
この差は大きい。
全部に予備を持つ必要はありません。
ただ、
「これが止まったら、自分はどこまで困るのか」
くらいは知っておいた方がいい。
便利さを捨てる必要はない。
でも、便利さに自分の全部を預ける必要もありません。
すべての便利さを手に入れて、気づかないうちにそのシステムに依存してしまってはいけない。
依存と集中は同じではない
一つにまとめること自体が悪いわけではありません。
むしろ、集中した方がよい場面はたくさんあります。
一つの道具を使い込む。
一人の専門家を信頼する。
一つの得意分野へ資源を集中する。
それによって効率や成果が上がることがあります。
だから、「一つに頼っている=悪い依存」と単純に決めることはできません。
では、集中と依存はどこで分かれるのでしょうか。
私は、
それが失われた時に、自分が選択できなくなるかどうか
を見ると分かりやすいと思います。
あなたが集中させたり、依存したりしても、どんな状態になってもあなたが困ることがなければ、便利になる事は良いことです。
一つに集中していても、必要なら別の手段へ移れる。
少し時間はかかっても、自分で立て直せる。
そうであれば、集中はしていても、完全に支配されてはいません。
反対に、それ一つが止まった瞬間に何も選べなくなるなら、便利さの裏で依存が強くなっていた可能性があります。
山地剥は、何かが失われた後に、その違いをかなりはっきり見せることがあります。
失ったものは何か。
それが山地剥だということです。
重要なことなのか、大した事がないのか。
それで、あなたの判断が正しかったか間違いだったか、もしくはどちら寄りだったかがわかります。
すべて二重にする必要もない
では、何でも予備を持てばよいのでしょうか。
それも違います。
その方法は費用の面で非効率でしょう。
スマホを何台も持つ。
すべてのデータを何重にも保存する。
取引先を無理に増やす。
収入源をできるだけ細かく分ける。
何でも二重、三重にする。
そこまでやれば、今度は備えること自体が負担になります。
安全のために仕組みを複雑にしすぎれば、その管理に時間もお金も使います。
大事なのは、全部を守ることではありません。
止まった時に、自分にとって致命的になるものを知ることです。
重要なのは、致命傷がないこと。
致命傷がなければ、すぐ元に戻すことができます。
少額の買い物なら、一度支払えなくても大きな問題にはならないかもしれません。
一つの収入源に生活全部がかかっているなら、その依存は一度考えた方がいい。
しかし仕事のデータなら、話は変わります。
致命傷だったり、重要なことならバックアップを取る必要があるかもしれません。
自分にとって、
失っても面倒なだけのもの。
失えば致命的になるもの。
そこを分ける必要があります。
剥がれた時に困る場所ほど、先に見ておく。
全部を二重にするより、重要な場所を知る方が現実的です。
「備えすぎること」もまた弱さになる
依存が怖いと分かると、今度は何でも備えたくなることがあります。
しかし、不安から予備を増やし続ければ、別の問題が生まれます。
何か起きるかもしれない。
だから予備を持つ。
その予備も壊れるかもしれない。
だから、さらに予備を持つ。
これでは終わりがありません。
剥がれること、壊れることは、あり得ることであり、前提なのです。
備えは必要です。
しかし、備えの目的は不安をゼロにすることではありません。
何か一つ壊れた時に、すぐすべてが止まらないようにする。
その程度で十分なものもあります。
山地剥から考えるなら、剥がれることを完全に防ぐことはできません。
物は壊れます。
人は離れます。
仕事は変わります。
会社もサービスも永遠ではありません。
大切なのは、「絶対に失わない仕組み」を作ることではなく、
何かが失われても、次の判断ができる余地を残しておくこと
ではないでしょうか。
完全な安全よりも、立て直せる余白。
私は、こちらの方が現実的だと思います。
剥がれても、壊れても、再生できるだけの余白、余裕。それこそが必要なものなのだと思います。
山地剥は、失った後に見えるものを教える
山地剥を見ると、「失う」という言葉が先に浮かびます。
確かに、剥では何かが削られ、落ちていきます。
それは不安なことです。
しかし、剥がれることによってしか見えないものもあります。
剥がれることによって見えるものがあります。
表面が残っている間は、弱点は隠れています。
便利さが続いている間は、依存も見えません。
止まった時。
失った時。
そこで初めて、
「これは思っていた以上に危うかった」
と気づくことがあります。
だから山地剥は、ただ失う卦として読むだけではもったいない。
何かが剥がれた時、その下に何が残っているのかを見る卦
として読むこともできます。
失ったものばかりを見るのではなく、
「なぜ、これがなくなっただけで困ったのか」
を見る。
そこに、次に直すべき場所があります。
見えるようになる卦だと言う理解もできますよね。
まとめ|剥がれた後に、自分の弱点が見える
暮らしの中の便利さそのものは悪いものではありません。
生活や仕事を軽くしてくれます。
一つにまとめることで、できることが増えることもあります。
しかし、便利なものほど、正常に動いている間は依存に気づきにくい。
だから、止まった時に初めて分かります。
自分は何に頼っていたのか。
それがなくなった時に、どこまで動けなくなるのか。
何を自分で判断できなくなるのか。
山地剥は、何かが剥がれ、失われる卦です。
しかし、そこで見るべきなのは、失ったものだけではありません。
剥がれた後に見えたものが出てくるはずです。
全部に予備を持つ必要はありません。
便利さを捨てる必要もありません。
ただ、失ったら致命的になる場所だけは知っておく。
そして、何かが止まっても、次の判断ができる余白を残しておく。
山地剥が見せるのは、失ったものだけではない。剥がれた後に初めて見える、自分の弱点です。
あなたの致命傷になるところを、ちゃんと理解して把握すること。
そして、それに対してどう対応するのか、それを考えておく。
あなたにとって重要な何かが失われた時、
「どうすれば元に戻せるか」
だけではなく、
「なぜ、これ一つを失っただけで、ここまで困ったのか」
と問い直してみる。
その問いの中に、次に直すべき場所が隠れているのだと思います。
自分に詳しくなることで、あなたは、どんどん強くなっていくのです。
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