なぜ私は、そこまで早く動くのか
私の癖なのかもしれませんが、私が旅行に出るとき、私はかなり早く動く。
飛行機なら何時間も前に空港に着くことがある。持ち物はチェック表を作って何度も確認する。海外でコンサートに行くときには、前日にホテルから会場まで実際に歩いて、道を確認することもある。
周囲の人は一つ一つの行動だけを取り出せば、そこまで準備しなくてもいいのではないかと思われるかもしれない。
私自身、準備すればするほど良いと単純に考えているわけでもないのです。
それでも私は、準備が足りない側より、余計にする側を選ぶことが多いですね。
私が守りたいのは「予定どおりに行動できた」ということではなく、その先にある第一目的だからだ。
たとえば海外へコンサートを聴きに行くなら、航空券を取り、ホテルを予約し、コンサートのチケットを買う。そこまでには相当な時間を使っているし、場合によっては数十万円単位のお金も動く。
そこで飛行機に乗り遅れれば、ただ飛行機一本に乗れなかったという話では終わらない。後ろにつながっている予定まで壊れる可能性がある。
私にとって早く動くことは、遅刻そのものが怖いというより、大きな目的を一つの失敗で失わないための方法です。
トラブルは前日に経験しておく
海外では、私は日本語で生活しているときと同じようには動けない。
ドイツへ行ったからといって、私はドイツ語ができるわけではない。土地勘も十分にあるわけではないですね。
だから、時間を使うんです。
ホテルからコンサート会場まで歩いて行けるなら、私は前日に一度歩いてみる。地図の上では簡単に見えても、実際に歩けば分からないことが出てくるかもしれない。
その時、時間的余裕がなく、その時間にしかそこでコンサートが行われないのであれば、土地勘がないことは大変な問題になります。
道を間違えるかもしれない。思っていた場所を通れないかもしれない。予定していた移動方法に問題が見つかるかもしれない。
しかし前日なら、それでいい。
その日にコンサートが始まるわけではないから、間違えても時間がある。問題が分かれば、別の方法を考えることもできる。
つまり私は、トラブルを完全になくそうとしているのではありません。
トラブルが起きても困らない時間に、できるだけ前倒ししている。
本番の日に初めて失敗するより、前日に一度失敗した方がいい。本番では余計なことを考えず、第一目的であるコンサートへ向かえるからである。
無茶をするから、慎重になる
ここには一見すると矛盾があります。
本当に安全だけを求めるなら、そもそも外国まで行かなければいい。言葉の分からない国へ行かなければ、言葉が通じないことによる問題も起こらない。
しかし私は、ドイツ語ができないという理由だけで、聴きたいコンサートを諦める方が不合理だと思っている。
行きたいなら、どうすれば行けるのかを考える。
言葉が足りないなら、時間で補えることはないか。土地勘がないなら、下見で補えないか。その場で素早く問題を解決することが難しいなら、問題が起こりそうなところを事前に確認できないか。
不足している能力と、それを補うために使う資源が何かを知っておく。知っていれば対処ができる。
時間、情報、確認、下見、経験。お金を使わなくても、自分が使えるものはいくつもある。
私の場合、慎重だから挑戦しないのはもったいないと思っている。
むしろ逆です。
自分にとって少し無茶なことを実行するために、私は慎重に準備をする。
一つ一つの準備だけを見れば、一般的には「そこまでしなくても」と思われるかもしれない。
しかし、その準備によって本来なら難しいことが実行可能になるのなら、私にとっては意味があります。
準備にも限界はある
ただし、ここで難しい問題が出てくる。
では、準備すればするほど良いのだろうか。
私は基本的には、慣れていないことほど準備は多い方がいいと考えている。どこまで準備すれば十分なのかを判断できるほど経験がないなら、不足する側より余る側へ線を引いて、準備は多めの方がいい。
しかし、それを絶対的な原則にしてしまえば際限がなくなります。
二時間早く行くより三時間、三時間より五時間、前泊より二日前から現地にいた方が安全だという話にもなりかねない。
準備そのものにも時間と体力が必要である。準備のために疲れ切って、本番のコンサートを楽しめなくなったら何をしているのか分からない。
だから私は「準備すればするほど良い」を一度は大前提として置きながら、同時に「本当にそうか?」と問い続ける必要があると思っています。
基準になるのは、第一目的が達成できるかどうか。
その準備は第一目的を守っているのか。それとも、いつの間にか第一目的を侵食し始めているのか。
正しい線を最初から知ることはできない。だから最初は安全側に余分に取る。そして経験するたびに、「これは必要だった」「これはやりすぎだった」と少しずつ線を引き直していく。
「できない」から考え始めない
この考え方は、旅行だけの話ではないと思っています。
私はこれまで、「できない」と言われることの多い側にいた。
だからこそ、自分まで最初から「できない」という前提に立ってしまえば、そこで可能性が閉じてしまいます。
私が考えるのは、できるか、できないかという二択ではありません。
どうやったらできるのか。
できない部分があるなら、何が足りないのか。その足りないものを、別の何かで補うことはできないのかを考える。
もちろん、準備すれば何でもできるわけではない。本当に動かせない条件もあるし、引き受けるべきではない危険もある。
だからこそ、自分に問いかけ続けるんです。
これは本当にできないことなのか。それとも、方法がまだ見つかっていないだけなのか。
足りないものを、時間や情報や準備など別の資源で補うことはできないか。
そして、そのためにしている準備は、本来の目的を守っているのか。
できないと言われたからやめるのでもなく、何でもできると思い込むのでもない。
その間で、「では、どうやるか」を考え続ける。
私にとって慎重さとは、そのための方法の一つなのです。
まとめ|問いを変えれば、見つかる道も変わる
慎重であることと、大胆であることは、必ずしも反対ではない。
知らない場所へ行く。慣れていないことをする。自分には足りないものがある。それでもやりたいことがあるなら、不足しているものを別の資源で補うことで、実行できることはある。
例えば、Google Mapsでその旅行を予習してみる。
まだ予約はできなくても、去年のその季節の飛行機の値段はどのくらいだったかを調べてみる。
そんなふうに、自宅にいてもその旅を仮想体験することはできます。
私は、初めは準備を安全側のために多めに取る。ただし、準備そのものが目的になっていないかは問い続ける。
大切なのは、最初から「できるか、できないか」を決めることではないのかもしれない。
自分には何が足りないのか。それを何で補えば、どうやって実現できるのか。
その問いから始めることで、最初は無理に見えたことにも、別の道が見つかることがあります。
別の道が見つかる可能性があるのだから、一生懸命探す。
私が思っているのは、問いの質の大切さです。
「できるか、できないのか」と問うのか。
「どうやったら、やれるようになるのか」と問うのか。
この二つでは、出てくる答えに雲泥の差が出てくると思います。
