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慎重に考えることと、怖くて決められないこと
何か大きなことを決めるとき、慎重に考えることと、怖くて決められないことは、私にはまったく別のものに見えます。
しかし、実際の人間の気持ちは、それほどきれいに分かれていないのではないでしょうか。
少なくとも私は、そうでした。
慎重に考えているつもりでも、その中には怖さが混じっています。逆に、怖くて決められない時間の中でも、本当に確認しておかなければならないことがあります。
だから私は、「迷っているから決断力がない」と単純には考えません。
私にとって慎重に考えるということは、方向そのものがまったく決まっていないというより、ある程度は決断したうえで、実際の行動をより安全な方へ寄せていくことです。
しかし、それとは別に、本当は条件が整っているのに、怖さだけが残って決められないこともあります。
その二つの間には、はっきりと線を引けないことがあります。
私の場合、それがよく表れたのが、一人でドイツへ行くことを決めたときでした。
行きたいのに、最後まで決められなかった
私には、どうしても聴きたいコンサートがありました。
ベートーヴェンの交響曲第9番《合唱付き》です。
私は先に公演のチケットを確保しました。
しかし、チケットを持っていることと、実際にドイツまで行くことは別でした。
ヨーロッパまで行かなければならない。お金もかかる。一人で外国へ行くことへの怖さもある。何より、ドイツ語ができないし、それを補うための道具があるわけでもありませんでした。
ホテルはキャンセルできるものを選び、予約してはキャンセルし、また予約するということを繰り返しました。
飛行機については、出発の一週間ほど前まで決められませんでした。
本当に行くのか。
行かないのか。
私は迷っていました。
そこには慎重さもあったと思います。しかし、慎重さだけだったとは言えません。
怖かったのです。
私は、死ぬ覚悟ができたと言ってもいいくらい、この旅行を怖いと感じていました。
だから、決められない。
それでも時間は進んでいきます。
いつまでも「考えている」と言い続けることはできませんでした。
最後に残っていたのは、自分の中の恐怖だった
そのとき、航空会社から私にとって有利なオファーがありました。
それを見たとき、少し気持ちが軽くなったように感じました。
そして私は、その出来事をきっかけに、半ば何かを振り切るような勢いで行くことを決めました。
人生には、ときどき背中を押すような偶然があるのだと思います。
しかし、後から考えてみると、そのオファーがなかったとしても、私は最終的には行ったと思います。
なぜなら、行くための条件はかなり整っていたからです。
公演のチケットは持っている。旅行を成立させるための準備も進めている。
そこで最後に残っていた大きなものが、自分自身の怖さでした。
もちろん、怖いからといって、何でもやればいいわけでも、やめておけばいいわけでもありません。そこを見極めるのが自分の判断だからです。
本当に危険なら中止した方がいいでしょう。お金が足りないなら、行かないという判断もあります。必要な条件が整わなければ、今回は見送るという決断もあると思います。
しかし私の場合は、そうではありませんでした。
条件を確認していった最後に、それでも私を止めているものは何なのかと考えると、自分の中の恐怖が大きかったのです。
決断しないことを繰り返す方が怖かった
そこで私が考えたのは、今回のコンサートを一回逃すことだけではありませんでした。
「ヨーロッパだから」
「お金がかかるから」
「怖いから」
そうやって理由をつけて今回行かなかったら、次も同じように理由をつけるのではないか。
その次もまた、「今回はやめておこう」と考えるのではないか。
そうしているうちに、時間だけが過ぎていく。
私には、その方が怖く思えました。
一回の機会を逃すだけなら、それだけの話かもしれません。
しかし、決断しないことを繰り返すうちに、決断する力そのものが鈍っていくとしたらどうでしょう。
やりたいと思う。
しかし怖いからやめる。
次もやりたいと思う。
また理由を見つけてやめる。
それを繰り返した先にいる自分を想像したとき、私は嫌だと思いました。
そして、もっと強い感情もありました。
環境が整っているのに、自分の心の弱さだけで行かなかったとしたら、後になって私は自分自身を軽蔑するだろうと思ったのです。
私は、自分が自分自身を軽蔑することだけは、何とか避けたいと思いました。
慎重さを、決めないための理由にしない
だからといって、私は迷う時間を無駄だったとは思いません。
慎重に考える時間は必要です。
条件を確認する。危険を考える。お金を考える。何か問題があったときにどうするのかを考える。
そういう時間を飛ばして、勢いだけで決断することとは違います。
大切なのは、慎重に考えることを、いつまでも決めないための理由に変えないことではないでしょうか。
私自身、慎重さと恐怖を完全に見分けられるわけではありません。
感情のにじみのようなもので、両方が混じっていることがあります。
だからこそ、私は条件を一つずつ見ていきます。
今は本当に決められないのか。
まだ確認すべきことが残っているのか。
それとも、行ける条件は整っているのに、自分が怖くて決められないだけなのか。
そして、「これなら行ける」と踏めたところで決める。
そのとき、偶然が背中を押してくれることもあります。
しかし、偶然が来なければ決められないわけではありません。
最後に人生で物事を決めるのは、少しでもいいから自分です。
怖さが消える前に決めることもある
私は、恐怖がなくなってから決断できたわけではありませんでした。
怖いまま決めました。
慎重に考えることもやめませんでした。
怖さと慎重さを両方抱えながら、それでも条件が整ったところで、「行く」と決めたのです。
決断とは、迷いが完全になくなる瞬間を待つことではないのかもしれません。
自分なりに必要な条件を確認し、それでも残っているものが恐怖なら、その恐怖を抱えたまま一歩を出すこともあります。
私は、怖がることそのものを否定したいわけではありません。
ただ、本当にやりたいことがあり、行動できる環境も整っているのに、怖さだけを理由に何度も自分の望みを諦め続けることは避けたい。
一度の決断は、一度だけで終わらないからです。
その決断をした自分が、次の自分につながっていく。
だから私は、決断できなかったことを後から悔やむ以上に、決断から逃げ続ける自分にはなりたくないと思っています。
まとめ|自分が決断できる人間であることを誇りたい
慎重に考えることと、怖くて決断を先送りすることは、きれいに分けられるものではありません。
私自身、その二つが混じったまま迷うことがあります。
だから、怖いなら何でもやればいいとは思いません。必要な条件を確認し、安全側へ寄せることも必要です。
しかし、条件が整い、自分でも「行ける」と判断できるところまで来たのなら、最後に残った恐怖だけを理由に諦めたくはありません。
背中を押してくれる偶然が現れることもあります。それがなければ、自分で決めなければならないこともあります。
私が避けたいのは、一回の機会を逃すことだけではありません。
やりたいことから何度も逃げるうちに、決断する力を失い、最後には自分自身を軽蔑するようになることです。
怖さが消えるまで待つのではなく、慎重さを保ったまま、行けると判断したところで決める。
私にとって決断とは、そういうものなのだと思います。
つまり私は、自分で決断して、自分が決断できる人間だということを誇りにしたいのだと思います。
